タツキ先生は甘すぎる 第2話を見て

※ネタバレ注意

第2話を見ました!
第1話の感想はこちら

今回の話は、ダンスが苦手な子の話だった、というだけではなかったように思う。
もっと本質的には、できない自分を人に見せられない子の苦しさが描かれていた。

サクは、いわゆる周りから見れば、何も問題がなさそうな子だ。
勉強もできる。運動もできる。人間関係もそこまで悪くない。
でも、そんな子が学校をだるいと言う。

ここがすごくリアルだった。

子どもは、いつも自分のしんどさを正確な言葉で説明できるわけじゃない。
苦しい、つらい、恥ずかしい、怖い、そういうものがまだ整理されていないとき、口から出るのは、だるい、めんどい、別に行きたくない、みたいな雑な言葉だったりする。
でも、実はその雑な言葉の中にこそ、その子の本音が隠れていることがある。

今回のサクも、たぶんそうだったんだと思う。

ダンスが苦手だった。
でも、本当に苦しかったのは、ダンスが苦手なこと自体ではない。
苦手な自分を見せたら、自分の立っている場所が崩れてなくなるかもしれない。
まわりが思っている自分でいられなくなるかもしれない。
その怖さのほうが、よっぽど大きかったんじゃないかと思う。

子どもって、思っている以上に、自分の立ち位置をちゃんと見ているんだよね~
自分がどう見られているか。
何を期待されているか。
どこまでできる人として1人の人間として扱われているか。
大人が思う以上に、その空気を読んでいて・・・

そして、その期待に応えられなくなるかもしれないと感じたとき、子どもは苦手を乗り越える前に、まず隠すことにエネルギーを使い始める。
ごまかす。
逃げる。
ふざける。
だるいと言う。
心理学では、こうやって心を守ろうとする働きを防衛機制と呼んだり、あえて言い訳を作って自分を守る自己ハンディキャッピングと言ったりします。でも本当は、どうでもよくなんかない。どうでもよくないからこそ、そうやって無意識に傷つかないようにしている。

これは、学校でも、フリースクールでも、本当によくあると思う。

だから今回よかったのは、タツキ先生が、すぐに理由を言葉で引き出そうとしなかったことだ。
どうしたの。何が嫌なの。何があったの。
そうやって正面から問いただすのではなく、コラージュをしたり、お面をつくったり、少し遠回りしながら、その子の内側に触れていこうとしていたわけです。
心理支援のアートセラピー(芸術療法)などでもそうですが、言葉にならないモヤモヤは、手作業や遊びの中にこそ、ぽろっと現れることがあります。

ここには、教育の大事なことがあると思う。

子どもの本音って、説明の中に出てくるとは限らない。
むしろ説明より先に、手の動きや、選ぶものや、ふとした沈黙や、表情の変化に出てくることのほうが多い。
大人はつい、言葉で整理させたくなる。
原因をはっきりさせたくなる。
解決への道筋を立てたくなる。
でも、子どもの心はそんなに一直線ではない。

言葉になる前のものを受け取れる場があるかどうか。
そこがまず大事なんだと思う。

もうひとつ、この第2話がよかったのは、ただ頑張ればいいという話にも、しんどいなら逃げればいいという話にもしていなかったところだ。

ここは本当に難しい。

教育に関わっていると、困難を乗り越える経験も大事だと思う。
少し踏ん張る中で見える景色もある。
自分でできたという感覚が、その子を支えることもある。
一方で、無理をさせることで心が折れてしまうこともある。
だから、頑張らせるのが正義とも言い切れないし、休ませるのが正義とも言い切れない。

現場はいつも、そのあいだにある。

今回の話は、その難しさをごまかしていなかった。
親の気持ちもわかる。
学校側の考えもわかる。
本人のしんどさもわかる。
だからこそ簡単じゃない。

でも、その中でやっぱり大事なのは、今その子の心が持つかどうかを見ることなんだと思う。
一般論ではなく、その子を見ること。
正しさより先に、状態を見ること。
教育者にとって一番大事なのは、そこなんじゃないかと改めて思わされた。

そして終盤、サクはまたダンスに向き合おうとする。
ここもすごくよかった。

ただ逃げて終わる話ではなかった。
でも、向き合えた理由は、根性を叩き込まれたからではない。
できない自分を出しても、全部終わるわけじゃないかもしれない。
失敗しても、自分の価値がなくなるわけじゃないかもしれない。
その安心が少し育ったから、もう一回やってみようかなと思えたんだと思う。

教育って、挑戦させることが先なんじゃない。
失敗しても大丈夫だと思える土台をつくることが先なんだと思う。
発達心理学の言葉で言えば、いざという時に戻ってこれる安全基地となる場所や人。
あるいは、ありのままの自分を出しても拒絶されないという心理的安全性。
その順番を間違えると、子どもは挑戦そのものを嫌いになる。
でも、土台があれば、人は案外、自分からまた向き合える。

これは、フリースクールの現場でもすごく感じることだ。

学校に行けなくなった子の中には、学力がないから苦しいわけでも、怠けているから動けないわけでもなく、失敗したときの痛みが大きすぎて、もう一歩が出なくなっている子がいる。
頑張ることが嫌なんじゃない。
頑張った先で傷つくのが怖い。
見捨てられるのが怖い。
がっかりされるのが怖い。
だから止まっている。

そういう子に必要なのは、頑張れではないし、何もしなくていいでもない。
弱さを見せても関係が切れないこと。
できないと言っても居場所がなくならないこと。
まずその安心があることだと思う。

今回の第2話は、まさにそこを描いていたように感じた。

それにしても、子どもって不思議だ。
完璧でいようとすると、かえって孤独になる。
でも、弱さを少し見せられたとき、ようやく人とつながれることがある。

これは子どもだけじゃなくて、大人も同じかもしれない。
先生も、親も、支援者も、ちゃんとしていなきゃいけないと思いすぎると、だんだん苦しくなる。
でも本当は、関係をつくるのは完璧さじゃない。
安心して不完全でいられる空気なんだと思う。

第2話を見ながら、そんなことを何度も考えた。

子どもを苦しめるのは、苦手があることそのものではない。
苦手を出したら、自分の居場所がなくなるかもしれないと思ってしまうこと。
そこが苦しい。

だから教育に必要なのは、苦手をなくすことだけではない。
苦手があっても、あなたはあなたのままで大丈夫だと伝わる場をつくること。
そのうえで、やってみるかどうかを一緒に考えること。

第2話は、その当たり前でいて一番難しいことを、かなり丁寧に描いていたと思う。
甘いかどうかで言えば、たしかに甘いのかもしれない。
でも、子どもがもう一度立ち上がるために必要なのは、厳しさの前に、この甘さというかユルいように見える関わりなのだと思うけどなぁ

タツキ先生は甘すぎる第2話のYahoo!記事

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